ありがたい話。
今回は、自分を支えてくれている、愛すべき人々への思いと、人の生き方にまつわるお話。長い話なので、興味のない方はとばしてくださいまし。
5月末、友人のお父さんが亡くなり、お通夜に出てきました。
今年に入ってからは特に葬儀が多く、坊さんの説教も何度も聞いているんですが、今回の葬儀で聞いた話の一節が耳に残り、何週間も自分の中で思考をめぐらせています。
それは「自分自身の身体は仏様(御先祖)からの借り物である」という仏教の教えです。身体はいつか必ず返さなくてはならない。だからこそ亡くなった人の心を受け継いでいくことが大切だし、今を生きる人は心のあり方を整えて、借り物である身体を大事に遣って欲しい、というものです。
・・・身体は御先祖からの借り物、といわれてフクザツな思いを抱いた自分。なぜかといえば、うちの御先祖が子孫に貸してくれている身体ってのが、なかなか操縦が難しいのでありまして。。。。
我が家ってのは、自分のひいじいちゃんが秋田から函館にやってきてからここまでの間、家系が絶えていてもおかしくないというくらい、跡継ぎの男手には身体的な諸問題が多くありまして、自分も若い頃に死ぬ目に遭う経験をしてます。そういう体験をなんとかかいくぐって生き延びられたことで、最愛の人と出会い、家族となり、子ども達にも恵まれました。
そういう困難を経つつも、じいちゃんと、身障者の親父、自分、未熟児だったけど懸命に頑張った長男、そして次男と、なんとかつながってきて、いまこの世に四世代揃って存在しているわけですから、このことだけでもありがたいことだな~と感じているわけです。
いまの世の中は、長生きできる社会を実現できたのとひきかえに、長生きのぶんだけ、心や身体の病、困難に見舞われる機会も多くなってしまいました。そして、苦しい境地においやられたときは、おそらく誰もが一度や二度、生きることの意味を自問したことがあるかと思います。
自身もかつては、痛い思いをさせられる度に「どーして自分がこんな目に遭わなきゃならないんだ」と思ってましたが、思想を変えない限り、繰り返し襲ってくる痛みからは逃れられないということに、いつしか気がつかされたのでした。
あのとき死んでいたかもしれない自分。
その後も痛い経験は多いけど、なんとか生きてるわけで。
いや、やっぱりそれって生かされてきたんだろう。
きっと何か、自分に課せられた役回りがあるということなんだろう。
それが何なのかは全然わかんないけど、生かされていることの意味を探求する人生も、もしかしたら楽しいかも知れない。
心や身体に傷を負い、「自分がこうなったのは○○のせいだ」という思いを抱えたままの人生は、辛すぎます。「○○のおかげで自分はここまでこられたんだろうな」と考えたほうが、幸せですからね。
この世の中は「生きていても仕方がない社会」では決してないわけです。この世に生を受けたこと自体が、様々な奇跡が重なった結果であるわけだし、深い孤独と絶望の中で光を見いだせない時期だってあるかもしれないけど、どんな人間にも「自然治癒力」っていう、身体や心をもとに治そうとする凄いチカラがあります。自分もその力を何度か経験したこともあり、辛い状況に置かれても、そのチカラを信じてみることから、いくらでもやりなおしがきくんじゃないかなと、思うわけです。
(ガン細胞に侵されてたらどーする?みたいな意地悪な質問は却下^_^;)
で、こーやって頭のなかを整理しているうちに、臓器移植法改正案のニュースが流れて、世間の物議を醸しはじめました。一分一秒も早い臓器移植を待つ家族と、植物状態でも愛情に満たされて過ごす家族、マスコミは対極的な現実をこれでもかというくらい見せつけてきますので、子を持つ親の一人として、悩まずにはいられません。
自分の経験から考えてみると、
例えば自分の命も、長男の命も、現代の高度医療に支えられて救われたのは事実です。時代が時代なら自分は死んでいて、もちろん長男も生まれてくることはなかった。あるいは、自分は生き延びたとしても、長男はどうだったかわからない。
そういう観点では、移植法改正によって国内での高度な医療技術が活用できるようになって、救われる子ども達が増えるのなら、それを願いたい。でも、それは臓器を提供する側があって成り立つことになるから、提供する立場の人達に最大限納得のいく制度でなければならんのです。つまりは、修正案の中にもあったようですが、脳死判定の厳格化、たとえば自発呼吸が出来る出来ないとかいうような確認点と、脳死者の家族の尊厳をきちんと考えた法案になってくれればと願うのです。
話は最初に戻りますが、「自分自身の身体は仏様(御先祖)からの借り物である」という仏教の教えと、臓器移植とか脳死という問題に関係して感じるのは、移植を待つ側も、脳死状態の側も、人間自身が持つ「自然治癒力」という力だけではどうにもならない状況に置かれて、医療という施しを必要としていることには違いないということ。そして、ここで大事なのは、医療という世界とどう向き合うかというところではないかと。
まぎれもなく、長寿社会は医療の力によって実現されました。ですが、それを享受する立場の私達が、自らと向き合うことをせずに「自分への施しは当然の権利」だとばかりに振る舞う傾向が強くなっていることが、医療を取り巻く諸問題の根元にあるような気がしているのです。そしてそのことは、因果応報ではないけど、結果的に医療を取り巻く全て=私達と業界の双方に、何らかのカタチで不利益をもたらしているような気が、僕自身はしているのです。
そんな時代だからこそ、身体を「御先祖からの借り物」として捉え、自らと向き合い、辛さの伴う病や障害というものを受け止めて生きていけるような、謙虚な心のありようが大切なんだろうと思うし、世の中にそういう心が広がっていってほしいと願うのです。
「ありがとう」は、存在することが難しいこの世に存在していることに感謝、ということば。ゆえに今日は「有り難い話」としました。読んでくれてありがとう(^_^)
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